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薬剤師のメソッド

進学、就職、国家試験、転職など薬剤師の人生についていろいろ

生産的な人間以外は生きるべきではない世界

雑記

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とはいったいなんなんでしょうね。

障碍者は生産的ではないから生きるべきではない、というのであれば、どういった人間が生産的であるというのでしょう。

若く、見た目もよく、健康で、強靭な持久力を持ち、生殖能力が高く、知能指数が高い人間でしょうか?

それ以外の人間は生きるべきではないのでしょうか。

働けないもの、若くないもの、次世代に子孫を残せないもの。

そういった人たちを排斥した末の世界って、果たして理想なのでしょうか。

 人に助けられるという生産行為

障碍者が生産性がないというのも、一面的でしかない穿った見方ではないでしょうか。

障碍者をサポートするという「事業」は生産的行為につながりますよね。

だって、全世界健康でピンピンした人だらけでしたら、介護も福祉も必要ないわけですよ。

みんなが誰の力も借りずに生きていける世界であるのならば、医療も必要ないんですよ。

言ってみれば、福祉や医療従事者というのは(肉体的、精神的に)「弱者」である人たちを支えるというビジネスで金銭を得て、自分の生活を潤しているわけです。

医療はボランティアではありません。

金銭を受け取る生活手段のひとつです。

他の職業となんら変わりありません。

医療は滅私奉公の世界と勘違いされがちですが、あくまで仕事は仕事です。

医療というビジネスを通じて自分の生活基盤を支えているだけにすぎません。

この世が健康で病にかからず、何の医療・福祉サービスも必要としない人たちであふれてしまったら、私たち医療従事者はおまんまの食い上げです。

極端な話ですが、「病気があるから」私たちは仕事ができるんです。

いくら国家資格を持っていようと、その知識なりスキルなりを発揮する相手がいなければ、資格はただの紙切れです。

そのサービスを必要とする相手がいるからこそ、ビジネスは成り立ちます。

「障碍者は生産的ではないから生きるべきではない」

そんな考えが悪化していくと、どうでしょう。

「健康な人間以外は生産的ではない」

すなわち、「健康ではない人間を相手にする職業は生産的ではない」という考えにつながっていきます。

 

寛容性を認めない心は自分で自分の首を絞めることになる

世の中はつながっています。

一見生産的ではないことも、ほかの誰かから見てみると生産的である。

そのようなことはほかにもたくさんあります。

「こんなこと、誰の役に立つんだろう」

「こんなもの、あってもなくても変わらないのに」

本当にそうでしょうか。

あなたの目から見たものは必要ではなくても、それを必要としている人というのは存在します。

フリーマーケットアプリなんか使ってみればよくわかります。

自分の「ほしい」「正しい」が、世界でも同義とは限らないことを痛感します。

 

たしかに障害がある方というのは、健常な人と比べると、肉体的・精神的・知的に偏りがあるかもしれません。

しかしその事実をもって「非生産的であるから排斥すべき」という考えに至るのは結論を急ぎすぎであり、浅い考えと言わざるを得ません。

生きるということは、誰かの力を借りながら暮らしていくということです。

障碍者であろうと健常者であろうと変わりません。

たとえば消費者向けのメーカーで働いている人なら、消費者向けのコンテンツを常に考えているでしょうし、BtoBであるなら提携先の企業を優先順位を高くして考えるでしょう。

医療・福祉従事者も同じです。

患者さんを一番の優先事項として業務を進めます。

そして、私たちの仕事は、患者さんがいるから成立します。

患者さんがいなければ、私たちはただの人です。

それこそ生産性はありません。

「障碍者は生産的ではない」という考え方は、偏った一面的なものでしかありません。

健常者であれ、障碍者であれ、関与する人たちに「生産的なもの」を与えていることには変わりはありません。

「生産的ではない」の一言であらゆる弱者…たとえば働けない人、子供をつくれない人、体が動かない人、を排斥すべき、という考え方は、めぐりめぐって、自分の首を絞めることにもつながりかねません。

自分だって、いつそのような立場になるかはわからないのですから。

老いることも、障害を持つことも、自分にはかかわりないと思って生きられる人間などほぼいません。

お互いの弱さ、欠けた部分を、お互いの強さで、補強しあえる社会になればいいと思うしだいです。