薬剤師のメソッド

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「がんばる障碍者は偉い」という24時間テレビへの違和感

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毎年やっていますよね、24時間テレビ。

私が物心ついたころから当たり前のようにやっていました。

ジャニーズがメインパーソナリティを務め、タレントが100キロマラソンを走り、障碍者の方のチャレンジ企画を放送したり、実話を基にしたドキュメンタリードラマを放送したり…まあそういった企画がメインのテレビ番組ですよね。

 

この番組のメインの目的は「チャリティー」であり、人気タレントを起用したりセンセーショナルな企画を立ち上げたりすることで、障碍者の方を支える募金を集めること。ただ募金をうたうだけでは人は集まらないので、絶大な人数のファンを抱える「ジャニーズ」を広告塔に据えることで集金効果を狙う。テレビの戦略的には非常に理にかなったものかと思います。

 なぜ毎回障碍者にチャレンジさせるのでしょう

ただ、この24時間テレビ、毎回見ていて違和感があるのは「障碍者ががんばる姿を放送して視聴者の感動を誘わせる」ことなんですよね…。

 

そりゃドキュメンタリーにするのでしたら、少しは作為的なものも含まれますし、淡々と事実を放送するだけよりは、「起承転結」「クライマックス」を設けたほうがテレビ番組としておいしいことはよくわかります。ドキュメンタリーというのはあくまでエンタテイメントなので、お涙ちょうだいの構成にならざるを得ないのもわかります。テレビ局は数字が取れてなんぼですので、できるだけ視聴者の心を引き寄せるフックが必要なのでしょう。

 

それにしても、毎回「がんばる障碍者」を放送する意図というのが、考えれば考えるほどよくわからなくなってきます。「がんばる障碍者」を世間に知らしめるのであれば、それこそ今年なんてパラリンピックを放送すればいいですし(まさか東京オリンピックでもパラリンピックを放送しないなんて言う展開はありえませんよね?)「チャリティ」を目的で障碍者をテレビに出させているというのであれば…それこそ「感動ポルノ」として障碍者を利用しているように思えてなりません。

 

障碍者は健常者の感動のために消費される存在ではありませんからね。障害と闘う姿、それに心を動かされる人たち、という姿がTVショーのストーリーの定石とはいえ「がんばる障碍者」に感動させられる健常者という言葉にどうにも違和感を感じてなりません。

 

健常者「がんばる障碍者を見て、私もがんばらなければいけないと思いました」

よくこういう感想を聞きますが、これってなんか違和感がありませんか?そう思うのは私だけですか?いや、本当に、なんか言葉にできない気持ち悪さがあるんですよ。なんでこんなに違和感があるのかははっきりと言葉にできないんですけど…

 

そもそも、「障碍者ががんばること」と「私ががんばること」って無関係じゃないですか?

 

誰が何にがんばるかどうかなんて、その本人の自由勝手に決めていいことであって、自分と全然関係ない人…それが障碍者であれアイドルであれスポーツ選手であれ、その人たちががんばっているからって、自分もがんばらなきゃ!って思う必要なんか無くないですか?

 

そりゃアイドルやスポーツ選手はよく「みなさんに元気を与えたい」「勇気を与えたい」って言いますよね。自分たちの活動が一種のエンタテイメントであり、他人を喜ばせる効果を持つことを知っている人たちですから、彼らががんばる姿を見て、ファンが勇気づけられるというのは、ある意味納得がいきます。

 

だけど「障碍者ががんばる」のは「他人に勇気を与えたい」「他人に元気を与えたい」からですか?

 

もちろんそのような思いを持って行動されている方もいるでしょう。しかしそのような思いが主目的の人は少ないでしょう。ほとんどの人は「自分の生活を維持すること」とか「生活の質を高める」とか「趣味のスキルを高めたい」とか「仕事の精度を高めたい」とか…とにかく「自分」を主軸に置いて生活されているのではないでしょうか。

 

そのような人たちの活動を外側からじろじろと見つめて「障碍者なのに、すごくがんばってる!すごい!私たちもがんばらなきゃ!!」と奮起させられるのって……なんかすごく違和感があるのです。まるで素人の盗撮ポルノを見て興奮するような「コレジャナイ」感があるんです(見たことないけど)。

 

「いや、私たちの生活はあんたたちを元気にするためにあるわけじゃないんだけど…」「あんたたちのエンタテイメントとして一日単位で消費されるコンテンツのために私たちの生活があるわけじゃないんだけど…」

 

そういう裏の声が聞こえてきそうで、どうもむずがゆい感覚があります。自分の生活やチャレンジのことを「エンタテイメント」と割り切って、マスメディアに晒す気がある方の場合は構わないんですけどね。

 

障碍者全体に対して「障碍者ががんばる姿は素敵だから、障碍者はもっと健常者を感動させるべき、24時間テレビのようなチャリティ番組で露出されるべき」という考え方を強いるのは非常に危険だと思います。

 

「がんばっている」でも「がんばっていない」でもどっちでもいい

というか「がんばる障碍者が偉い」のであれば、「がんばらない障碍者は偉くない」のでしょうか?健常者はどうですか?「がんばっていたら偉い」んですか?がんばっていない人には価値はないのですか?

 

私はそうは思いません。

人間いつだってがんばっていられるわけありませんし、そんな人ばかりだったら世の中暑苦しくてたまりません。がんばっている人にはがんばってもらっといて、日陰ではぐだぐだアイスを食べて寝そべっている。そんな人が一定数いたっていいんじゃないかと思います。あんまり度を越すと老害になりますけどね。

 

24時間テレビのようなマスメディアで取り上げられる障碍者の方は「がんばっている」方であり「センセーショナルなストーリー」を抱えている方です。

しかし、そのような方が多数派でしょうか?そんなことありませんよね。劇的なストーリーを持っていない障碍者の方もいますよね。というかそういう方の方が多いですよね。

 

ああいうマスコミでの「がんばる障碍者は偉い」というストーリーを見ていて怖くなるのは「がんばらない障碍者は偉くない」みたいな極端な思想が視聴者に生まれてしまわないかということです。

 

マスコミは数字優先ですので、とにかく「目を引く」ストーリー、「涙を誘う」ストーリーを作りたがります。そういうことを繰り返した結果、視聴者の中には、ドラマチックなストーリーを持つ者たちだけが「障碍者」なのだと誤解してしまう人が出てきてしまうのではないでしょうか。

 

マスコミで報じられる障碍者の姿は、あくまで一部の「絵になる」物語に限られます。ほかの大多数は、マスコミに報じられるまでもない「地味で」「絵にならない」ものです。しかし、本当に周知されるべきものは、そういう日陰に隠れた方々ではないのかと思わざるを得ません。

 

24時間テレビによって毎年2億円以上の募金が集まっていますし、チャリティ番組として一定の効果をおさめていることは認めます。(出演者のギャラが多額なのには納得いきませんが)

しかし、「がんばる障碍者」をあたかも「障碍者の代表」のようかに取り上げ、感動ポルノとして健常者に消費させるようなやり方については、もう少しどうにかならないのかと思います。「がんばってないかのように見える障碍者」への風当たりが強くならないか心配です。

 

健常者だろうと障碍者だろうと、がんばっていようといまいと、健康で文化的な生活を営む権利はありますからね。