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薬剤師のメソッド

進学、就職、国家試験、転職など薬剤師の人生についていろいろ

人間関係の悩み。コミュニケーションは色と色のバランスに近いと思う

雑記

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ここ数年、人間関係の悩みが尽きません。

学生時代とはまた種類の異なった問題が発生しています。

 

やはり同年代の好きなメンバーとだけつるんでいればよかった学生時代と違って、幅広い年代、職種、文化的背景を持つ人たちとかかわっていくのは簡単なことではないようです。

 

相手を傷つける場合もありますし、こちらが傷つけられる場合もあります。

こちらが我慢すれば解決する問題もあれば、これ以上我慢していたらこっちの身がもたない!といった問題もありました。

 

コミュニケーションの問題は千差万別であり、こうという最適解はなかなか見つかりません。

「押し付け」「全肯定」は危険

ここ数年特に感じるようになったのは「相手に自分の考えを押し付けること」「相手の考えをすべて肯定し、受け止めようとすること」の危険性です。

 

以前、「自立とは依存先を多く確保すること」という記事を紹介しました。

自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと

この言葉の意味の深さは、社会人になってから強く感じるようになりました。

 

特定の誰か、何かに自分の承認欲求、アイデンティティの確認を全委任してしまうのは自分の人生を自分で生きることの放棄、責任転嫁、自己肯定の放置の危険につながりかねないからです。

 

どういうことかというと「Aさんさえいればいい。Aさんに自分のことをわかってもらっていればいい」という考えはAさんに自分の人生を押し付けること、自分で自分の人生を肯定することから逃げている、ということです。

 

自分の人生を肯定するのは、自分の役割です。

子供のころなら「あなたはそれで大丈夫、こうしていればあなたの人生は大丈夫」とまわりの大人が言ってくれます。

たとえば親、たとえば教師、たとえば「社会人の大人」。

 

このような「大人」たちがあなたの人生の軌道を修正し、「そう、その方向で進めば大丈夫だよ。あなたは大丈夫だよ」と肯定してくれます。

子供の人生軌道を修正し、生き方を肯定するのは大人の役割です。子供には十分な客観性が備わっておらず、自分の人生をどう進めたいという意志が成熟していないからです。

 

しかし「大人」の人生についてはどうでしょうか。

大人は自分の意思で人生を進めることができます。

どんな仕事をするも、誰と結婚するも、何を食べるかも、すべて自由です。

自由は楽しく気軽な一方で、責任を伴います。

自分の選択から逃げないこと、「自分の人生を肯定する」責任を持つことです。

 

依存体質の人というのは、自尊心が低く、自己肯定を他人に求めます。

自分で自分を好きになれないから、その穴を他人に埋めてもらおうと必死になります。

その結果、恋愛などで特定の人に自分を肯定してもらおうと躍起になったり、カネ・モノで自分の虚栄心を埋めたがります。

 

私はこの「自分の人生を他人に肯定してもらう」という作業は、とても危険と思います。

他人に肯定してもらったところで、一番根源的な「自分で自分を認める」作業が完了していないのです。自分が自分を肯定しない限り、自分のアイデンティティが他人に依存した状態になり、他人にふりまわされっぱなしの人生になります。

 

「自分の考えを押し付ける」というのはそういう危険性も含んでいるのです。自分で自分の人生を生きられなくなるリスクをはらみます。

 

また同様に「他人を全肯定する」こともリスキーです。他人を全肯定する人というのは、支配欲が強く、また、これもまた自尊心が低い人です。

どういうことかというと、「他人を受け入れることで自分も受け入れてもらおう」という肚があるからです。

 

自分で自分を受け入れらない→他人をすべて受け入れる→その見返りとして、自分を受け入れてもらう

返報性の原理ですね。

 

他人のアイデンティティを掌握することによって、「自分の人生はこの人が握っている」と感じ、自分に価値を見出す。他人を全肯定する裏にはこのような心理があると思います。

 

「他人を全肯定する」行動には、「自分を塗りつぶされてしまう」リスクもあります。他人を受け入れよう、許そう、認めよう……そう思うあまり、自分の価値観や好き嫌いを見失ってしまい、相手の操り人形になってしまう危険性もあります。

 

「自分の考えを押し付ける人」と「他人を全肯定する人」。この両者は根源的には同じです。承認欲求が非常に強く、自分を誰かに認めてもらいたくて仕方ない。

 

そしてこの二人はパズルのピースのように需要と供給が一致するため、しばしば共依存的な関係になります。

毒親と子供、ドメスティックバイオレンスの夫婦などにはこの心理がベースにあるのでは、と最近考えます。

 

お互いの色を守れる距離感が心地よいコミュニケーションである

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近頃思うのは、コミュニケーションは色と色のまじりあいということです。

個人でそれぞれ違う色を持ち、それぞれの色をまぜあうことで化学反応を起こし、違う色を生み出す。

きれいな色に混ざればコミュニケーションは「成功」ですし、汚い色になれば「失敗」です。

 

より多くの人、多くの場できれいな色に混ざることができる人を「コミュ力がある」「協調性がある」と呼ぶことができるでしょう。ただし「きれいな色」というのは主観的な評価を多く含むので、人によっては「こんな色は好みではない」「いつも同じ色ばかりでつまらない」という意見も出てくるでしょう…

 

先述した話での「自分の考えを押し付ける人」というのは、色でいうところの「黒」です。相手の色を塗りつぶし、自分の色に染め上げようとする。相手の色を奪うことで、自分の存在価値を確認しているのですね。

 

そして「他人を全肯定する人」は、「白」です。相手を受け入れ、害がないように、とげがないようにふるまう。

 

「黒」と「白」、どっちもコミュニケーションとしては適切ではないと思います。

人間は悪魔でも菩薩でもないので、徹頭徹尾誰かを受け入れたり、誰かを支配し続けようとしたりはできません。

 

重要なのは「自分の色を守りつつ、相手の色との化学反応をより心地よいものにする」

試みなのではないでしょうか。そしてそれが、良いコミュニケーションを目指す上で欠かせないものではないでしょうか。

 

たとえばあなたが「赤」色を持っていて、相手が「青」色を持っていたとします。

両者がフィフティフィフティで色を出し合えば「紫」になります。

あなたのエゴが強くなれば「赤紫」やがて「赤」になります。

相手のエゴが強くなれば「青紫」やがて「青」になります。

その時の状況や環境で「赤紫~青紫」のぶれはよくあることでしょう。

しかし「赤」「青」に完全に傾いてしまうことは、危険なコミュニケーションと思います。それは意思疎通でもなんでもなく、無責任な発信と受容にしかすぎないからです。

 

言いたいことを好きなように言えば、コミュニケーションができていると思っている人。

相手の要求をすべてのめば、コミュニケーションできていると思っている人。

 

両者とも、多いように感じます。そしてそのどちらも、健康的なコミュニケーションではないと私は思います。

お互いの手持ちの色を塗りつぶさないように、きれいな色を表現し、心地よい環境をつくるにはどうしたらよいか…

 

それを追求することがコミュニケーションの課題なのかなと思います。